昭和50年02月27日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持って行かれ、後の世までも残るのは神徳ぢゃ神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると言う事がない。」
昨日お道の新聞が金光教徒社から参りました。読ませて頂いとりましたら、碩徳(せきとく)信心の展開と言う様な事で、どなたかの先生が西沢と言う先生が書いとられる。それから永井肝四郎と言う先生が高橋博士先生の事を書いて居られる事の中に、高橋博士と言う大変偉い先生が居られました。此処でよくお取り次ぎを頂いて、起きて来る事良い事悪い事みな良い、お取り次ぎ頂かずして、起きて来る事良い事悪い事みな悪い、あの教えをなさった先生です。高橋博士先生です。
頭の鋭い素晴らしい先生だったそうです。その先生が永井肝四郎先生に、色紙に書いてやられた事の中に、こんなのがある。絶対他力絶対自力と。絶対他力絶対自力、もう大変な矛盾を感ずるのですけども、私はそれを読まして頂きながら、確かに金光教の信心はそれだとこう思います。それがあのう矛盾する所か、それが一つに成っておる所へ、お道の信心があると思うんです。
絶対他力、絶対自力だとこう言う、そこから私はこの絶対信が生まれて来ると思うですね。絶対信所謂神様を信じて疑わないと言う事であろう。神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少い、と御教えがあります。だから神に信じられると言う事が、そのまま御神徳だと思う。御神徳とは神様のの御信用だと言われる位ですから、その為には私を信じて下さい、私を信じて下さいと言ったんでは駄目なんです。ね。先ずはその神様を信じれる私にならなければ、いけないと言う事です。
そこから積徳信心、所謂徳を積んで行く信心。是はもう限りがない。昨日私がお夢の中の事を聞いて頂きました様にね、石段が沢山あるその石段を沢山限りなく登って行くと言う様な物なんです。限りがない徳を積んで行くと言う事にはもう限りがない。そこでなら信心すれば誰でも神徳が受けられると、仰る様な信心とはと言う事になるのです。只お参りしよります、只拝見よりますと言うだけでは、此処では信心じゃない。
それは例えば沢山なお道の信奉者はおりましょうけれども、充分一家中一家を上げて例えば、信心しておるからと言うてです、神徳を受けて行きよるとは思えない人が沢山あるからです。教祖様は嘘を仰っとられるとは思われませんからね。昨日熊本の富永先生が御信者と一緒に、月末のお礼に必ず出て見えます。そしてこう言う事を言っとられます。私は教祖の神様に憧れて、お道の教師になりましたち。教祖の神様の言うならば人となりと言うか、御信心に憧念心を燃やされた訳です。
そして止むに止まれん、お道の教師にならして頂いた。さあ所がどっこい仲々お道は開けなかった。それこそ苦しい事ばかりであった信者も出来なかった。かてて加えて、御自分はもうそれこそ体に病気だらけと言われる様に、富永先生は亡くなられたと言うな噂が立ったのも一回、二回ぢゃない程に弱い体でおありになった訳です。布教に出られて六七年でしたか、兎に角まぁそれこそ見すぼらしい布教所であったそうですけども、その家すらも家主に追い立てられると言う事になられた。
然も年の瀬も間近いと言う、時に別に家賃も滞っとると言う訳でもはないのに、急に都合が出来て出て貰わんならんと言う事になった。それこそ御夫婦がもう血の涙の出る様な状態であった。そう言うな事が当時の椛目に御縁を頂かれる始であった。私はその時に神様に其の事をお届けさして頂いたら、雪の生態と言う事を頂いた。ね、雪のあの一片一片のを顕微鏡で見ると、もうそれこそもう本当に神様の御手になるものが、此の様に素晴らしいものであろうかと思わずにはおられない程に。
その雪の一片一片と言うものはです、もうそれこそあの幾何学模様の様なに、出来上がっておると言う事です。もう神様の手にならなければ、天地の親神様の手になる物の、そに微妙さと言うか、緻密さと言うか、もうそれは恐れ入ってしまう。それで私はその富永先生に申しました。家主が仲々冷たいことを言う、まるきし雪の様に冷たい事を言う様にあるけれども、それこそ緻密な幾何学模様の様な、神様の深い御深慮御神慮があっての事なのだ。是は神様の深い御深慮があるのですから。
それはそれこそ血の涙で受けるのぢゃない、それこそ言うならば有難涙で受けなければ成らない程しなんだけれども、其処は解らない凡夫ですから、ね。只その事を合掌して受けなさい、そしたら次のお繰り合わせが願えますよ、と言うてお取次さして頂いた。神様のどこに御神意御神慮があるか解らない時に、お参りして来たのが今熊本一番の信者と言われる位な、そのーそれこそ実意丁寧神信心の信者がお参りして来る様になった。兄弟三人がお参りして来る様になった。
然かも三里か四里か離れた所から、そしてその話を聞かせて頂いて、そんなら教会になる様な家を探しましょうと言うて、日奈久と言う温泉町ですかその町から程遠からん所に、町にも近いそして教会の為に出来たぢゃろうかと言う様な、それは小じんまりとした家ではあるけれども空家を一家見つけ出した。もう年末歳の暮れにそれこそ家移りさして頂いて、それからそう言う力になる信者が、出来て参りましたから、もう元旦祭はその家で出来る程しにお繰り合わせを頂いた。もうアッと言う間におかげを頂いた。
本当に成る程神様のお心と言うものが此処にあったのかと、成程神様のこんな小さいそれこそ夏なんかはもう日が差し込んで、暑くて堪らんと言った様なお広前だったらしい。以前のお広前は開けたらもうお広前と言った様な、まあ言うなら布教所であったらしい。それをサア出て行け、もう言うて追い出される時には、何と冷たい仕打ちの大家であろうかと恨む様にあったけれども、一度お取次ぎを頂いて、解らして頂いたら、それが深い神様の御神慮であったお心であったと。
そして是は素晴らしいそれこそ、教会に建てたわざわざ立てた様なお家を下さろうとする働きであった。しかもその言う事を前後して次々と信者が増えて来たと、その当時言って居られましたが、毎日五人六人宛、求信者があると言っておられました。それから人が段々助かる様になり、そして現在のおかげになっております。私共がその御神慮を解ると言うか、神様のお心が解らして頂く所から、言うならばお礼を申し上げねばならない事の事実が解って来る。ね。
悲しい事苦しい事、本当に難儀な事と言う事ではなくて、それが全部神様の深い御神慮、どう言う御神慮かと言うと、ね。そう言うそれこそ誂えた様な良いお広前を下さろうする、御神慮ですねかね一番手前の所の。けれどもそんな事じゃない、もっともっと深かぁい御神慮があっての事であった。その後に助かるどの信者の状態を思うて見てもです、神様がこう言う信者を差し向けて下さる。
昨日もお届けの中に御座いました、もう本当に先生私は信心は出来ませんけれども、お引き寄せ頂くその信者の質の良いのに私は驚いとります。今日そんなお届けがありました信者の質が良いと言う事です、もうそれこそ言うならば一騎当千の信者ばかりが集まって来ると言う感じだと言うのです。熊本の地に合楽示現活動が起こると言うか頂いて帰ってからの又最近の御比礼は、もうそれこそ目覚ましいものがあると言う事です。
そして最近思わせて頂く事はです、是は富永先生の言葉ですよね、私は教祖の神様に憧れてその憧念心に止むにやまれん、それがお道の教師にお取立て頂いた動機でしたがね、仲々人も助からんそんな簡単な訳には行かなかったけれども、合楽に御神縁を頂く様になって、親先生のお取次を頂かして貰うて、一つ一つのおかげの上に現れて来る、そして此処に教祖を改めて、私が願い求めておった教祖を此処に見、此処に頂いたと言う感じであります、と言う事を言われた。
所謂大坪総一郎そのまま教祖の神様と言う方はこんなお方であったであろうかと言う訳なんです。ね。まあーそりゃーまあー。勿論そんな事がある筈もないし、雲泥の相違でしょうけれども、然し確かに少なくとも富永先生の心の中にはですね、自分が描いておった教祖様を、合楽に求めておられると言う事が解ります。その証拠にはそのまま教祖の神様の御取次の働きと言う物をです、現しておられる。おかげを受けておられる。合楽示現活動信者一同参画の御礼と言うお届けが必ず御座います。
付いて来る信者もやっぱりその事を一番に申します。日々合楽示現活動参画によらせて頂きまして、与らして頂きまして有難う御座いますと、言う事を言われます。こう言う行き方は私は積徳、こう言う行き方で行くならば、徳をんで行く筈だと思います。月の四日には必ず此処で神愛会がある教師会です。先生方ばかりの会です。もう必ず月の四日に出て来んならんのですから。わざわざ月末に出て来なくてももう一緒に御礼申し上げれば良いと言う感じでしょうが。
けれども絶対お礼はお礼、月末にでて見えます。見えるともう御本部参画と同じ事、時間から言うて熊本の日奈久からやって来るのですから、所謂一日掛りでやって見える訳です。もう月の四日には行くから、もうその時に一緒にお礼を申し上げようじゃなくて、矢張りお礼はお礼に出て来なければ居らない程しにおかげを受けておられると言う事なんです。次に積徳と。昨日椛目の宮崎さんがこんなお届けをされた。今朝方からお夢を頂いた。それが合楽のお広前に饅頭をお供えしようと思って用意しておった。
所が近所に、文利さんと言う友足さんの弟さんが居られます。その方が来てからつるつる来てからその饅頭を食べてしまいなさった。是はもう合楽にお供えせんならんとを、食べてしまわれたと言うお夢であった。饅頭と言う事は万の寿と頂かんならんでしょう。弟さんの文利さんが食べてしまいなさったと言う事はね、内輪の者が食べてしもうたと言う事になるでしょうね。
例えば痛い思い、又は苦い思いをして病院にかからなければならん、沢山そしてガバッと病院代を払わんならん様なのは、内輪の者が食べてしもうたと同じ事。事故にあった又はね、罰金を取られたと、是なんかもやっぱりね折角の万寿を出してもうそれこそ、付いて行こうごとある気持ちで払わんならん。それは神様がねそうでもさせなければ、その言うならば家が持てんから、五体がもてんからなのだ。
吐いたり下痢したらするのもそれです。それが体中にあったんでは、愈々体の方が保てんからきつい思いをさせてからでも吐かせたり、それこそ下痢させたりしてでも、その五体が保てる為にそう言う働きが、天地の働きがあるのだ。だからその苦い思い、きつい思いで下すよりも有難く天地の還元と言う事を忘れてはなりませんよ、と言う事をお話させて頂いた。そしたら昨日繁雄さんがお初穂整理を終えられてからですね。
先生どうしたもんでしょうか、と言うて昨日一昨日のを、昨日整理されますから、一昨日宮崎さんところの方から、十三日会の時のお供えが、その時参っておられなかったのでしょう。十三日会のお供えが昨日、一昨日しておったらしい。そうだったですかそれでそのうその整理されよったげなが、これは皆さん本当に用心なさらねばいけん。沢山お供えなられますからね、中に空のとが沢山ある訳です、忘れる入れ忘れる訳です。だから普通、私は申しません。
もうお供えする積りで決してそれはあのう、わざとじゃないとじゃから。それこそ忘れちゃるとじゃけ、けれども十三日会といやぁ、神様の願いが成就すると言われる程しの、言うならばお供えなのだから、それはやっぱり一口言うとかにゃいくめいのと私は言うときました。そして繁雄さんに話しました。今日はね宮崎さんがこげなお知らせを頂いちゃる、それこそ饅頭を合楽にお供えしょうと思いよったら。
内輪の者が来てパクパク食べてしもうた。これどんかほんとにパクパク食べられてしもうたんじゃろの、そげなお知らせまで頂いちゃるのだから。言わなければいけまいもと言うて話した事でした。ね。積徳是はもう絶対、天地へ還元になると言う事であったら、もうそれこそ美くうしゅう、言わば還元してかなければいけません。是が積徳のいわば徳を積んで行くと言う事そう言う事なんです。
積徳、徳を積んで行くと言う事を、富永先生の例をもって申しました。徳を積んで行くと言う事を宮崎さんの、そのお夢の中かた頂いたお知らせから聞いて頂きました。そう言う信心なんです。すれば誰でもお徳が受けられると言うのです。ね。同時に言わば今申しましたね、永井肝四郎先生が高橋博士先生から頂いておられる色紙に、お書き下げを頂かれて、その色紙に絶対他力絶対自力とあった。
お道の信心は是だと言う訳なんです。一寸考えただけだったら、確かに是は矛盾です。絶対までで使っている絶対他力だぞ、金光教の信心は同時に絶対自力だぞと教えておられる。成程ねですからね本当にもう本当に、例えば神様のおかげを頂かなければです、立行かん私達だと自覚出来ると言う事から絶対他力と言う真が生まれるのです。いいですかなら例えば此処一寸動く事すらがです。
神様のおかげを頂かなければ動けんのですから、寝たっきりの病人にさあ起きなさい、立ちなさい歩きなさいと言うたっちゃ、でけんでしょうが。神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸が動けんのです。なら動かして頂いておるのは、神様のお恵み神様のおかげによって動かせて頂いておるんだと、言う事が解る時ね、いの一番に命ある事と言う様なですね、今日こうやってお生かしのおかげを頂いとるその事が、もうそれこそ心の底からお礼が、申し上げねば居られない程しの事。
私は何を信じるかと言うと、そこを信じる事だと。それもね解るのじゃないもう心の底からそれを信ぜれると言う事なんですね。だから絶対他力なんですね。神様のおかげを頂かなければ、此処一寸が動けんのだと言う自覚に立つと言う事なんです。だからんなら話を聞いて下さって、あヽそうだなあと思っただけではいけんのです。そこに絶対自力だと言う修行がなされなければ、それを実感する事が出来んのです。皆さんが眠いのに一生懸命こうやってお参りの修行をなさる、是なんか言うならば絶対自力なのです。
そう言う例えば限りなく、そう言う絶対自力と一心発起させて頂いて、とても出来ようと思えなかった様な事がです、一年間なら一年間朝参りが出来たと、佐田さんじゃないけれども、七年前の寒修行の時に一家中でお参りさせて頂いた。一月間続いた一ヶ月間のはずであった所が七年間とうとう続いてしもうた、とうとう続いてしもうたじゃない続かせて頂いた。始の間は自力だったでしょうけども、段々神様のおかげでお参りさせて頂いたと言う事が解って来る。是等は絶対自力、絶対他力なのです。ね。
神様のおかげ神様から許されなければ、出来る事じゃないと言う事です。そこに生まれて来るのが絶対信であります。絶対信と言うのは、神様を絶対信じて疑わないと言う事なのです。それは或る場合には冷たい仕打ちだと、まあ何と腹の立つ事だ、本当に血の涙が流れる様だと言った様な事であってもです、それは神様が氏子可愛いと言う、所謂一段と大きなおかげを下さろうとする、神様のお働きであると言う事が解らせて貰うと、信じれる様になる事なんですね。
御教えに打ち向かう者には負けて時節に任せ、過ぎたる事を思い出して腹立ち苦をするなよ、と言う二つの御神訓があります。打ち向かう物には負けて、負ける事は残念だと言うごとあるけれども、それは有難ぁく、打ち向かう物には負けて、時節を待たせて頂く事が出来ると言う内容が生まれて来る。過ぎたる事と思い出して、腹立て苦をするなよと。ね。あん時あげな事がなかったなら、今頃はまちっと増しな事になっとるばってんねと、言った様なね、取り越し苦労だけではない。
過去の事を思い出しては苦にする様な事が段々無くなって来る。それは絶対信の心が強うなるからです。絶対信の信心、それを言うならば安心の生活とも言う訳です。信じて疑わない生活神様を。そう言う私は絶対信が生まれて来る所にです、神様は信ずるものを又信ずると仰せられるのですから、ね、良いですか。私共は神様を絶対の信を以って信ずる、其処に神は信ずるものを信ずると仰る。ね。
神様から信ぜられる私共と言う事になる。其処に至った時に私はね、御神徳と言ったものが、形の上に出来上がると言う事に成ると思うです。信心をすれば誰でも御神徳が受けられる、然もみてる事がないと言う御神徳はね、今日私が申しました富永先生の生き方を行くなら、必ず積徳徳を積んで行く事が出来る。宮崎さんのお夢の頂き方の所をです、限りなく美くうしくならせて頂く為の、天地への還元が本当に出来て行く事に依って、一段一段徳を積んで行く事が出来る。ね。
そう言う行き方の中からです、成る程金光教の信心は絶対他力であり、絶対自力であると言うその矛盾ではない、それが一つになって解け合った様なものである事が、実際心の中にそれを実感する事が出来る。矛盾ではない事が解って来る。そこから愈々神様を、所謂絶対他力絶対自力、この信心が解る所から生まれて来るのが絶対信なのです。それは絶対神様を信ずると言う事なのです。
だから信ずるものを又神が信ずると仰せられる、神様の御信用が頂けるのです。その神様の御信用こそ御神徳なのですから。信心すれば誰でも受ける事が出来ると言うのは、今日私が申しました様な信心を、一段一段ながらでもね、それを積み上げて行く所の精進努力と同時にです、絶対信のおかげの頂かれる神様を信じて下さい、神様私を信じて下さいと言うて信じられるものではない。
神様を疑いませんと信じ切ってこそ、始めて神様から信じられる、信じ信ぜられる中が生れて来る、そこに現れて来るのが御神徳。そう言う信心をすれば誰でもお徳を受ける事がでける、みてると言う事がないと言う事になるのです。御理解二節を今日で三日間頂きますね続けて、ですから一昨日昨日、そして今日の御理解をまた頂き直すと、愈々御神徳を受けて行くと言う事の内容がはっきりして来ると思います。
どうぞ。